• 「いしほうじ」という語をミューズの森の前につける時、漢字で表すと「きっとお寺の合唱団だと思われるのでは」とのことから、ひらがなにて表示することにしました。しかし、「石法寺」というお寺は、実在したのか、どこにあったのか、ということは前から興味がありました。恐らく、以前からこの土地に住んでいらっしゃる方々はご先祖から伝え聞いてこられ、ご存知だったと思われます。
    さて、「おゝうちの民話」の「石法寺について(下篭谷・野澤一二さん記)」を見ると、石法寺が歴史に現れた年代で、確かな記述は、「元禄十年口上書」に見られる「慶長二年(1597年)に、宇都宮氏の家臣であった野澤伊予守が、主家の改易にともなって、石法寺に移り住んだ」というもののようです。この野澤伊予守が、「問屋野澤家」の祖とのことです。
    その後、寛文元年(1661年)、野澤太兵衛が石法寺河岸に初代問屋を開業したことが「野澤家文書」にあるとのことで、これらの時代には石法寺は「地名」として既に存在していたようです。
    また、下篭谷にある神明宮、本殿の柱の金具に「享保五年(1720年)八月吉日、下野石法寺村神明宮」との記載があるとのこと。
    更には、昭和三十年の古老からの聞き取りでは、石法寺というお寺が観音堂(下篭谷字神地二五九七番地)の北(現在山林)に存在していたようです。しかし、石法寺は檀家のない寺であったために、やがて建物は保守する人もなく壊れ、廃寺となったようであるとのことです。どのようなお寺であったのかは明らかではないですが、確かに存在していたことが判りました。 

    次は、「問屋」ができた背景とも言うべき、鬼怒川水運についてご紹介します。
    鬼怒川は、鬼怒沼山に源を発する長さ174.6kmの一級河川です。地図で流れを追っていくと、野木崎付近で利根川と合流しますが、江戸時代以前には、鬼怒川と小貝川は合流し、常陸川として霞ヶ浦を経由して太平洋に流れ込んでおり、一方、利根川は荒川と合流して江戸(東京)湾に注いでいたようです。(図を参照)
    江戸時代以前の関東の水系図
    徳川家康が江戸に入ると、江戸を水害から守るため、流域の湿地帯から新田の開発を行うため、水上交通網を確立するため、そして、要害となる高い山の無い関東にあって伊達氏、佐竹氏、上杉氏といった東北諸藩の侵攻に対する「外堀」の役目を持たせるため、などを目的に関東の河川改修事業が行われ、ほぼ現在のような水系になったようです。
    事業の一環として、寛永六年に鬼怒川の新流路開削、寛永七年の小貝川との分離工事が実施され、鬼怒川は利根川と合流し、利根川も霞ヶ浦を経由して太平洋に流れ込むようになったようです。
    ちなみに、鬼怒川は、宇都宮氏の祖でもある毛野氏から、毛野川(けぬがわ)とも呼ばれ、また緩やかな流れから衣川、絹川とも書かれていた、とのことです。
    徳川幕府となってからは、東北地方から水路や陸路により送られてきた年貢米や特産物、また近隣の生産物資を大型の川舟に積替えて江戸に送るため、主な河川には船着場(河岸(かし))が設けられました。
    鬼怒川川筋の河岸については、つぎの様な報告(鬼怒川の話)があります。
    慶長十四年(1610年)  阿久津河岸成立
    元和七年(1621年)   板戸河岸成立
    寛永五年(1628年)   柳林河岸成立
    寛永六年(1629年)以降、道場宿河岸、石井河岸、鏝山河岸、粕田河岸など成立
    明暦三年(1657年)    利根川東遷工事が完了し、現在の利根川水系が完成
    寛文元年(1661年)   石法寺河岸が正式に解説される(前記の通り)
    延宝六年(1678年)   石法寺河岸が茂木藩の廻米を伊佐山河岸まで請負ったという記録がある

    このように寛永から寛文初期にかけて新しい河岸が開設されたのは、野州の大名、旗本の廻米輸送の要請からと考えられている。     

                                                 

    Posted by 福住 達夫 @ 5:33 PM

10 Comments to いしほうじ(石法寺)と鬼怒川水運 (2)

  • 問屋の西側を流れる通称ー新川は、人工的に造った高所水田である御領地(約250町部)の灌漑用水ですが、それは明治の初年、ミューズの森から北西に800メートルほどの所にあった、野沢泰二郎氏が創設された下野紡績の綿糸を造る動力として、水車を回す為に飛山城址付近の鬼怒川河口堰から導いたものであると聞いております。今では、コンクリートの側溝で固められて仕舞いましたが、以前はもっと川幅が広く、多くの木々や井戸を潤す地下水の源でした。

  • 大谷様コメントありがとうございます。石法寺について調べている際に、「下野紡績」のことが記された資料も見ました。
    また、ご近所の方から紡績所のあったことは伺っておりました。
    水車を動力としていたことも聞いておりましたが、鬼怒川べりと思っていました。
    前記の資料にも、「鬼怒大島付近に取水口を設け、八キロ余りの水路を開削し、横須賀造船所の六十馬力の水車(水力タービン)を設置して動力とした。」と記されています。
    水運業をはじめとして鬼怒川はいろいろと利用されていたことが判りました。
    当時は、現在より水量が多かったためでしょうか。

  • 初めまして、福住さま
    水量については、このコーナーで帆掛け舟の写真も有りましたが、正確な資料を見た訳ではないので、確固たる事は謂えませんが、水量は現在に比べて2倍くらいは有ったのではないでしょうか。鬼怒川の上流に五十里ダムが建設されたり、工業用に河川の水が利用されたりで、水量は大幅に減ったと思われます。
    また、当時の川底は、現在よりも大分高かったです。小生の子供の頃には大台風の時季に、石法寺の遺稿がある高台の下まで、鬼怒川の水が押し寄せてきた事を覚えています。河床の砂利を取る事も無い江戸時代には、河床も高く水量も豊富であった様で、鬼怒川の水路は陸路より遥かに交通手段としては有効であったと思われます。

  • 大谷様、貴重な情報ありがとうございます。一昨日、昨日とミューズの森へ行っており、返事ができませんでした。
    石法寺の遺構(?)がある場所はどの辺りになるのでしょうか。
    ご存知でしたらお教えいただけると幸いです。今回の発端となった「おゝうちの民話」を見せていくださいました、ご近所の方からは、石法寺の礎石のような石が出たところがあるようだとは、伺ったので
    すが、実際の所在場所までは良く判らない様子でした。
    判れば行ってみたいと思っています。
    福住

  • 拝啓ー福住様
    観音堂の付近は、国道409が開通しましてからは、全く、過去の雰囲気を一変して居ります。小生の子供の頃は、それこそ鬱蒼とした杉と檜の森でして、小学校低学年の子供が一人で通る事など、恐ろしくて出来なかった所でした。観音堂も南側に少し開けた広場があるだけで、北側は暗い杉の森に包まれていたのです。神明宮も深い木立に覆われて居て、神社とお堂の間には、荷車が通れるほどの小道が続いているに過ぎません。この様に、杉と檜の森は、子供心にも近寄り難く、静まり返った暗くて湿った空気に、得体の知れない神聖さを感じたものでした。大型トラックと行楽レジャーの自家用車が、排気ガスと騒音を撒き散らして、引っ切り無しに疾走する現在、その様な雰囲気は、もう探しても有りません。人々は心底、畏れる事を忘れてしまった様です。この様な力こそ、歌曲と同じように心の豊かさにつながり、未来には大切なものなのですが…

    さて、遺構の事ですが、申し訳御座いませんが、小生も聞いて居るだけで、自分の足で確かめた訳ではありません。観音堂の下の水田から見ますと、高台は幾分、弓形の様に弧を描いています。そして北側は突端がありますが、そこから北に広がる場所に、石法寺は在ったらしい。現在観音堂の北に広がる小杉の林です。この林の地面は平らではありません、地面はうねっていて、永い年月の経った塚の様な起伏があります。伽藍は、或いはもっと北、オートバイ屋さんがある付近まで広がっていたかも知れませんね。どの程度の伽藍であったのかも定かではありませんが、小さな本堂と庫裏があった程度のものと小生は思います。市の教育委員会も、ここを発掘調査した事はない。地名が残るのに、現物が定かでないのは、何とも、情けない話です。もしも、市立図書館に古い江戸時代やそれ以前の地図が残っていれば、幾らかは確定の参考になるとは思います。
    大谷雨水

  • 大谷様
    早速、再々貴重な情報を頂きましてありがとうございます。
    一度現地を見に行きたいと思います。「いしほうじミューズの森」と命名したので、せめて「この辺りに」と思える場所を知っておきたいと考えます。いつか、どのなたかに名前の由来など質問されるかも知れませんので。
    また、ご存知のことがございましたならご教示下さい。
    福住

  • 福住さま
    石法寺の遺構と思われる場所は御覧になられましたか?
    観音堂も石法寺の伽藍の一部と考えて好いと思いますので、つまり、配置は詳細に分かりませんが、あの付近に在った事は確実と思われます。寺には、その、由来と言いますか、その様なものがあるのが普通です、神社の縁起の様なものです。神社は大抵が延喜式に記録されているのですが、石法寺については、皆目不明です。この寺は、何の為に、何を供養する為に創建されたのでしょうか。もしも、鬼怒川の海運と関係があるとしたら、そこには、理由があったはずですね。

  • 大谷様
    今回は時間がなく残念ながらまだ現地には行っておりません。
    観音堂と神明宮の存在は以前から知っていましたが、どちらが観音堂であり、
    神明宮なのか判らず、改めて近くの方に伺いました。
    その結果と航空写真の「弓形」の地形からおおよその見当がつきましたので
    次回は、石法寺があった辺りの写真を撮ってきたいと思っています。
    やはりこのブログと一連のコメントのやり取りから、「いしほうじ」について
    関心を持たれた方もいらっしゃいました。
    大谷様が言われるように、石法寺の建てられた目的についてはミステリーです。
    近くには無量寿寺もあるのにと考えてしまいます。
    ただ、素人の推測では、無量寿寺を利用していた人たちと石法寺を利用していた
    人たちとは身分などに違いがあったのではないかと思っています。
    無量寿寺の方は、檀家として寺を支えることのできる人たちが利用し、一方、石
    法寺の方は寺を支えられるほどの人たちではなかったのではないでしょうか。
    しかし、人が亡くなればそれなりに供養はしたいでしょうから、定住ではない僧侶
    がそのような供養をおこない、そのために利用するような寺ではなかったかという
    気がしています。
    しかし、明治になって、身分制がなくなったり、廃仏毀釈の影響などから檀家の
    いない石法寺の存在が薄れていったのかも知れません。
    いずれにしてもおかげで地名となった石法寺が存在していたという事実は確認でき
    ました。

  • 福住さま

    コメントを振り返り、読んで見ますと、私のコメントの、誤植が多いのに困惑しています。先ず、「国道209号」は「国道208号」でして、「野沢泰二郎氏」は、「野沢泰次郎氏」の、「海運」は、「水運」の間違いです。大変申し訳なく思います。

    石法寺に付いては、最早、明確にその創建時代から廃寺への、存在期間を正確に見積もる事は、不可能かも知れません。確かめる手段としては、二つの方法があると思いますが、いずれにしても時間の霧は、実体を閉ざしているようです。第一の方法は、文献的な探究です。お話のように、近くに天台宗常在山無量寿寺が有ります。この寺の記録に、或は、過去帳であれ、どんな形での言及でも、石法寺が出てくれば、何らかの時代設定が可能ですが、無量寿寺の資料は、江戸時代の大火で、寺宝や大方の記録が消失している様です。それ以後の、現在、無量寿寺が所有している記録でも当たって見れば、何らかの切っ掛けは掴めるかも知れません。第二の方法としては、現在残っている観音堂の柱や仏道の内部を含め、六地蔵や墓石に刻まれた文字・年代のずべてを、徹底的に調べてそれを比較して見る事です。墓石には、必ず埋葬者の生年没年が刻まれているので、観音堂の、最も新しい墓石の時代までは、石法寺が存在している可能性は高いと思われます。

    私も以前、石法寺の廃寺には、多くの日本の文化財や、仏像・書・絵画などの、海外流失の端緒となった、明治の廃仏毀釈が、何らかの要因なのだろうか?と、思いました。神仏分離令は、明治2年の太政官布告から始まり、廃仏毀釈の荒れ狂った期間は、1年半程度であったらしい。しかし、冷静に推測して見ますと、詔書として、(大教宣布)が出ているのが、明治3年(1870年)です、これらの年前後に、多くの寺院は暴力的に破壊された。それから、80年経った1950年代に、既に石法寺は、人々の記憶から全く消えてしまっていたそうです。「あの寺は俺達がぶっこわした」位の話は、その息子を通じて、伝わっていても好いと思いますが、そんな話は余り聞かない。そういう寺であった事を思うと、石法寺が消え去ったのは、もっと前の時代の事のように思えて来ます。石法寺が、鬼怒川の河岸段丘に建って居たとしても、江戸時代の水運と関係付ける必要は無いのですが、私は、水運での「遭難者」の供養の為に創られた寺なのか?と、漠然と想像していました。町村合併で、地区の名称を安易に変える風潮が有りますが、地名と言うものは、その名前の背後に歴史を背負っています。簡単に変えて、済むという物では有りませんね。吉田東吾博士の「大日本知名辞書」でもあれば、この石法寺が出て来るか調べてみたいものです。